1960年代も終盤になると、デザイナーはプレゼンテーション用のカンプ(制作見本)にいっそうの完成度を求め、ロゴやタイトルに写植を使うなどさまざまな工夫を凝らすようになっていた。
そこで、いづみやはデザイナーの手で簡単に製版原稿や写植文字をつくることができる米国製の明室製版カメラ[スタット・キング]や写植機[フォトタイポジター]の取り扱いを開始。機材専門の部門として1970(昭和45)年、VGC事業部(印刷機材事業部)を設立した。当時の専門誌に出した広告のキャッチフレーズは「いづみやがメカニカル・フィールドにも進出しました!」である。
機材販売においては、メンテナンスなどのサポートを行ったり、印画紙・現像液などのサプライ用品を継続的に納めたりと、従来のいづみやにはない新しい販売スタイルが求められた。ワゴン車に機材を積んで、行く先々でデモンストレーションして回るルート営業はハードだったが、単価の高い機材は一台売れると大きな売上を生んだ。取扱商品の大型化によって拡張する業容に合わせ、同年には組織を株式会社に変更。販売・サポートのための拠点づくりも進めていった。
1973(昭和48)年ごろ、いづみやは[トレスコープ]の扱いをはじめた。写真やポジフィルムの映像を原稿台に投影し、拡大・縮小しながらそのアタリ(輪郭)をとるための機材で、やはりカンプ制作などデザインの現場で重宝された。
トレスコープの引き合いは多かったが、メーカーから十分な数が入荷しないなどの問題があった。そのため、「お客様のニーズに応えるには、自分たちでつくるしかない」と、営業マンたちは自社開発を決意した。
開発に当たったメンバーはデザインの現場を熟知し、トレスコープのこともお客様のニーズも十分にわかっていた。ただ、機械製造に詳しい者はほとんどおらず、商品開発も初めての経験だったので、商品のイメージを形にするには多くの試行錯誤が必要だった。
製作してくれる町工場は今日“産業のまち”として知られる大田区で見つけた。ここでも思うようにいかない場面は多かったが、1975(昭和50)年9月、ようやく最初の量産品の完成にこぎつけた。
[デザインスコープ]と名づけられたこの商品は、原稿台をモーターで動く電動式とし、レンズには紙焼きをとるためのシャッターも付加。アタリをとるだけの従来品にはない明らかなアドバンテージを備えていた。
その後、広告業界はもちろん、自動車、家電、テキスタイルの各メーカーからも注文が相次ぐヒット商品となり、デザインスコープはいづみや飛躍の力となったのである。
C&T Meetingは、はじめC&I Meetingという名前で、これは雑誌「Car Styling」といづみやの頭文字をとったものであった。第1回は1979(昭和54)年、「日本の自動車メーカーでは、同業他社のデザイナー同士は出会う機会がない」と知って、いづみやが小さな会合の場を用意したのがはじまりであった。
その後、年を重ねるごとに参加者は増加し、C&T Meetingの中で賞の贈呈式が行われていた『日本カーデザイン大賞』に、もっとも優れたクレイモデリングを表彰する『クレイモデリング大賞』が新設された。2019(平成31)年1月、カーデザイナーの交流の場『C&T Meeting』は第40回の節目を迎えた。
1980(昭和55)年、いづみやはキヤノン製品の販売代理店となり、[Canon NP-200J]の販売を開始した。キヤノンにかぎらず、当時のコピー機は頻繁に紙づまりしたり、トナーの黒色が薄かったり、はがれやすかったりと技術的にはまだ発展途上にあった。
いづみやはデザイナーのニーズに応えるべく、キヤノンに対してA3サイズ対応と、厚紙が通る仕様への改良を依頼。自社でもトナーの定着と黒の発色を高める機材を開発して同機に装着し、デザイン専用コピー機[グラフィック・タイプ]として発売した。
コピー機が進化し、ますます多様な機能性が享受できるようになると、コピー機をよりクリエイティブなツールとして活用する“コピアライズ”というコンセプトを提案。また、1985(昭和60)年からは各地に『プレゼンハウス』を開業。当時は高額だったフルカラーのコピー機などをそろえ、デザインワークをサポートした。
1987(昭和62)年、いづみやは自社開発のデザインマーカー[コピック]を発売した。
1960年代初頭から輸入販売し、1968(昭和43)年より国内生産も行ってきた[スピードライマーカー]は素材の揮発性が高いうえ、容器のキャップの嵌合が悪いためにドライアップしやすいという問題があった。そのために返品率も高かったので、必要に迫られ、いづみや独自のマーカーの開発に着手することとなったのである。
商品企画を開始してまもなく、お客様の使用状況やニーズを拾ってきた営業担当からある提案が出された。「せっかくつくるなら、コピーのトナーを溶かさないものにできないか」というものである。
コピー機が普及しはじめ、デザイン事務所でも導入が進んでいたが、当時はほぼすべてがモノクロ機であった。そして、カラーカンプの制作時、着色にはスピードライマーカーが広く活用されていたが、コピー機でとった図案の上から使用すると、溶剤によってトナーが溶け出すという悩みがあったのである。
そこで、新マーカー開発のコンセプトはトナーを溶かさないこととし、この要件は目的に適ったアルコール系溶剤を見つけたことでクリアした。
さらに、ドライアップを防ぐために、ボディの内部気圧をシビアに設定する、手ごろな価格で世に出すために両端のキャップを同形状にして製造コストを抑える、インクは補充可能にする、ニブは交換可能にするなど、長年の経験に基づく数々の工夫を凝らし、コピックの誕生へと至ったのである。
コピックというネーミングは、コピーとの相性がいいことを表したもの。ライトグレーのスクエアボディは、当時のキヤノンのコピー機をイメージしてデザインされた。
その後、1988(昭和63)年にグッドデザイン賞を受賞、2009(平成21)年には同・ロングライフデザイン賞を受賞し、世界中で愛用されるベストセラー商品へと成長した。
いまや世界中で使われている[コピック]だが、1987(昭和62)年に誕生してから、現在のユーザー層に広がるまでには紆余曲折があった。
先にも紹介したように、コピックなどのアルコールマーカーは、長年、プロのデザイナーやカンプライターの仕事道具として使われてきた。ところが、1990年代、デザインワークのデジタル化が進むと、デザイン事務所における画材の需要は激減した。
そんな時期、漫画の市場規模の急速拡大という新しい波がやってきた。プロの描き手たちが注目したのが、このコピックだったのである。このときから、漫画やイラストレーションの世界がコピックの新しい市場として急速に大きくなり、その波に乗り、1993(平成5)年に発売した[コピックスケッチ]は大ブレイクを果たした。
さらに、多くの著名な漫画家がコピックを愛用していることが知られるようになると、コピックは「プロの作家が使うイラスト画材」というイメージを確立。漫画やイラストを趣味とする世界中の人々の憧れの製品になっていった。その影響は想像以上に大きいもので、コピックの愛用者はますます増加、1998(平成10)年に初心者向けの[コピックチャオ]を発売すると、ユーザーの裾野はいっそう広がった。
近年はお客さまの声に応えて、人気作家の名を冠したセット商品なども開発し、人気を博している。
ビジネスをデザインという分野に特化して以来、いづみやは主に業界のプロフェッショナルに向けたマーケティングを展開してきたが、趣味でアートに親しんでいる人や、イラストやデザインのプロ予備軍も大切なお客様であった。
そうしたアマチュアの人たちに、いづみやを親密に感じてもらうための機会として、2つのイベントを開催した。イラストのコンテストである『クレセントコンペ』と、アクリル絵の具の絵画展『リキテックスビエンナーレ』である。
前者は1983(昭和58)年から全4回開催。当時はイラストレーターの登竜門ともいわれ、授賞者からはその後著名なクリエイターも輩出した。後者は1986(昭和61)年から開催。画材・デザイン材料の製造・輸入販売等を行うバニーコルアートの主催であった。